「問題」はどこから生まれるのか?

「問題」とは解釈だ
私たちは、個人の生活においても、組織の活動においても、ほとんどいつも「問題」と呼ばれるものに直面しています。そして、それを解決しようと日々苦闘しています。しかし、モグラ叩きのように、世間から「問題」がなくなることはありません。

「問題」とは一体何なのでしょう?
それは、一体どこに存在しているのでしょうか?

「問題」は、それ自体、目に見えるものではありません。目に見えているものは単なる現象であり、それを「問題」と認めているのはあくまでも人間の解釈です。

例えば、目の前に壊れた機械があったとします。でも、ただ壊れた機械があるという事実だけでは「問題」にはなりえません。それがもし、壊れた機械が工場の生産ラインの一部であったならば、それは問題視されるでしょう。しかし、それがもし誰に使われることもなく、スクラップ置き場に置かれているだけならば、それを問題視する人はいないでしょう。むしろ、それは廃品回収業者にとって利益をうむ「良いもの」であるかもしれません。

つまり、「問題」というのは、特定の事柄や状況それ自体の性質なのではなく、あくまで人間による解釈から生まれるものなのです。

「問題を解決する」という意味
このことを、もう少し詳しく考えていきましょう。
まず、そもそも「問題」とは一体何なのか?ということを考えてみます。

「問題」とは一般に、「望ましいあるべき姿と、今そこにある姿のギャップ」であるといわれます。「あるべき姿」と「今ある姿」のことを、「理想」と「現実」と言い換えてもいいでしょう。この「理想」と「現実」との間にギャップが生じる時、私たちはそこに「問題」を感じ取ります。

このとき、「理想」と「現実」のギャップが「問題」であるという関係を、

「問題」=「理想」ー「現実」

という等式で表すこともできるでしょう。

では次に、「問題を解決する」とはどういうことか?ということを考えてみましょう。

上に述べた「問題」の定義に従えば、「問題を解決する」とは、「現実」を変化させて「理想」に一致させることだといえます。「現実」を「理想」に一致させれば、両者のギャップはなくなり、その「問題」は解決された、ということになります。

しかし、ここでちょっと立ち止まって考えていただきたいことがあります。いったい、問題を解決するためには、本当に「現実」を「理想」に一致させるしか方法はないのでしょうか?

問題とは「理想」と「現実」の間のギャップを指すのですから、「現実」を「理想」に一致させるかわりに、「理想」を「現実」に近づけることによっても「問題」を解消できるのではないでしょうか?

「理想を現実に合わせる」などというと、「そんなナンセンスな!理想を捨ててしまっては、そこに何の進歩も生まれないじゃないか。」と反発される方もあるかもしれません。しかし、そう思われる方には、さらに次のようなこともあわせて考えてみていただきたいのです。

「理想」は必ずしも絶対的ではない
「理想」とは、想像しうる最上の状態を示す言葉であり、誰もが心の中に持っているものです。しかし、ある個人の「理想」が万人にも当てはまる、とまでは必ずしもいえません。

生まれた赤ん坊の頭の中はまったく白紙の状態ですから、個人の理想とは、生まれた後に外部から取り入れた情報をもとに作られるといってよいでしょう。異なる情報を取り入れれば、異なる理想像が作られます。したがって、個人の持つ「理想」とは、その人の生まれ育った環境や、経験に依存し、人それぞれ異なるのが当然である、ということになります。

もちろん、大勢の人に共有されている「理想」も存在しています。しかし、例えば、みんなが平和という「理想」を求めているという場合でも、平和のために日本は軍備を強化すべきと考える人もいれば、そうでない人もいるというように、詳しく見るとその理想の形も人により少しずつ違っていたりします。

また、仮にある「理想」が一つの集団の中で完全に共有されていたとしても、いったんその集団の外に出れば別の「理想」が支配的になっている場合があることは、国々の文化や伝統の違いなどを考えれば、容易に想像できるでしょう。

そうだとすれば、「理想」は人の数だけ存在するものであり、それだけが唯一正しいといえる「理想」は存在しない、ということになります。すなわち、私たちが自分で「理想」だと考えているものは必ずしも絶対的なものではない、ということになります。言い換えれば、理想とは主観的なものであり、自分の理想だけが客観的に正しいのだと考えることは、実は誤まりなのです。

「現実」にも主観が含まれる
「理想」の性格について調べてみた後は、上の等式の右辺にあるもう一つの項目、「現実」についても検討しておきましょう。

「現実」とは客観的な事実のことだと考えている人は多いと思います。しかし、本当にそうでしょうか? 一般に「現実」とみなされている事柄にも、実は往々にして主観的な判断が混じり込んでいる場合が多いことは、以下の例をみればわかります。

例えば、ある人が知り合いと道で出会った時、自分から声をかけたけれどその人はそれを無視して通り過ぎていった、というケースを考えてみましょう。この場合、この人にとって「自分が声をかけたのに相手に無視された」という事実が存在するように思われます。

しかし、本当は、相手は深く考えごとをしていたために、こちらがかけた声に気づかなかっただけかもしれません。したがって、この場合の「事実」とは、「こちらが知人に声をかけた」、「知人はそのまま通り過ぎて行った」ということに留まるのであり、「相手が自分を無視した」というのは、事実そのものではなく、その出来事に関する主観的な解釈にすぎないのです。

また別の例として、誰かがあなたに「公園の砂場で幼稚園児くらいの女の子がひとりぼっちで遊んでいた」という「事実」を伝えたとしましょう。

この場合、「ひとりぼっち」という言葉には寂しさのニュアンスが伴いますが、実際は、その子は一人で遊ぶことを楽しんでいたかもしれません。そういうところに、独断的に寂しさのニュアンスを加えて伝えることは、そこに語り手の主観が混じり込んでいる、ということになります。

また、極端なことを言えば、その子が本当に女の子であったかどうかさえ確実なこととはいえません。女の子っぽい服を着た男の子である可能性だってあるのです。しかし、それをその人は「女の子である」と自分で解釈して、事実としてあなたに伝えたのです。

このように考えると、私たちが日常「これが現実だ」と思い込んでいる事柄にも、実際には、往々にして主観的な解釈があちこちに混じり込んでいるのだということがわかります。

「問題」は頭の中だけに存在する
「問題」とは「理想」と「現実」のギャップである、ということはすでにみました。このうち、「理想」とは、完全に個人の主観であるということ、そして「現実」と言われるものにも、往々にして個人の主観的解釈が混じり込んでいるということも、私たちは確認しました。

そこで、上で挙げた等式を少し補って、

「問題」=「理想(=主観)」ー「現実(主観混じりの事実)」

と書き直してみます。

これをみれば、等式の右辺が本質的に主観的な性格のものであることがわかりますが、そうなると、当然ながら、右辺とイコールで結ばれた左辺の「問題」も、同じように本質で主観的な性格のものである、ということが明確になります。

このことから、「問題」とはつねに主観的なもの、つまりは人間の頭の中で作られるものである、ということがはっきりしました。これにより、私たちが「問題を抱えている」というとき、それは、自分が頭の中にある自分にとっての「理想」と「現実」のギャップに悩んでいるにすぎない、ということが確認できました。

問題を解決せず、問題が解消する
「問題」の性質が本質的に主観的なものである以上、対象を変えなくても考え方を変えることで問題が解消する道が確実に存在します。すなわち、「理想」を見直すことにより「現実」とのギャップをなくす、という方法です。

例えば、試験の成績80点を目指しているのに、現状では70点を取るくらいの実力しかないとします。ここに「問題」が生じます。しかしここで、頭を切り替えて目標点の水準を80点から60点に下げたとします。そうすると、現実(=実力)は何も変わらないまま、それまであった「問題」は消えてしまいます。

また、ある親が、子供が自分の希望通りに育ってくれないという「問題」を抱えていたとします。しかし、親が子供に対して抱いていた理想が、真に子供のためではなく、偏狭な視野に立つ自己満足のためのものであったことに気づき、それを捨てて子供自身の生き方を尊重するようにしたならばどうでしょう?子供についての現実は何も変わらないのに、「問題」は即座に解消してしまうことでしょう。

このように頭を切り替えることにより問題が解消してしまう例は、そのほかにも、例えば、一国のGDP成長の「問題」や、パートナーとの間の「問題」など、他にもたくさん存在していると思われます。

思い込みとしての「理想」を見つけて見直す
問題を解決しないのに問題が解消してしまうーーそれを可能にする鍵は、これまで無意識のうちに前提にしてきた自分の「理想」に気づき、本当にそれが普遍的に正しいと言えるものなのかどうかを検証してみることです。

人間のもつ「理想」とは本来素晴らしいものです。それは現実を良い方向に変えていく力をもっています。しかし、繰り返しになりますが、個人の理想とは、往々にしてそれまでの半生をつうじて無意識のうちに自分の中に育まれた価値基準であることが多いものです。あるいは、それにも満たない一時的、個人的な都合による願望にすぎない場合もあるかもしれません。

いずれにせよ、この価値基準や願望についての思い込みが強ければ強いほど、それは自分の思考をしばる鎖となります。そして、その基準や願望が現実に満たされないとき、自分を責め、他人を責める行動が自然に生まれていきます。この仕組みを知ることはとても大切だと思います。

私たちが日常の生活において何らかの「問題」を感じるとき、まずは、その「問題」感覚の前提にある自分の中の無意識の「理想」を探し出し、その内容を検証してみてはどうでしょう。そして、もしそれが自分の経験や社会からの影響から形成された思い込みであったり、自分勝手な願望にすぎないということがわかったなら、それまで抱いていた自分の「理想」を別のものに置き換えてみてはどうでしょう。自分の中の「理想」が変わったとき、それまで「問題」とみえていた事柄も変質し、まったく違う姿を見せてくれることでしょう。

問題を解決せずとも問題が解消する。その意外な極意がここにあります。

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