論理と言葉、そして人間の認識力

「論理」は重要なものとされていますが、論理には必ず言葉が用いられます。論理を厳密に展開するには、まず使われる言葉の定義をしっかりとしておかなければなりません。

ただし、当たり前のことですが、一つの言葉を定義するには、必ず別の言葉が必要になります。しかし、その「別の言葉」の意味を定義するにも、さらに別の言葉が必要になります。

これを続けていくと、言葉の定義の連鎖はどこまでも続いてキリがないことになります。そしてどこかで、まだ定義できていない言葉を使って定義しなければならない羽目に陥ることでしょう。

結局、最後にはいわゆる"循環論法"になってしまい、世の中に明確に定義されうるものは何も存在しない、ということになります。

これは、よくよく考えてみると驚くべきことで、すべての論理の実質が、意外にも(言葉の定義ができていないという意味で)最初から破綻していることを意味しているのです。

ということは、決して定義され得ない言葉を使って、論理を展開し、世界を理解したと考えているのが私たち人間だ、ということになります。そこには驚くべき人間の能力(認識力というべきでしょうか)があると言わざるを得ません。

本当は結びついていない「現実」と「言葉」の橋渡しをしている人間の認識力とは、一体どのようなものでしょうか?

そのおおもとは、「論理」や「言葉」の次元を超えた、人間の「感性」や「直覚力」であることは間違いありません。そして、言葉や論理はその認識力を前提とした上での道具に過ぎない、ということになります。

このことに、世間のどれだけの人が気づいているでしょうか?

論理が絶対だと考えているインテリ層の人たちも、一度はこの人間の持つおおもとの認識力に思いをいたして、論理と呼ばれるものが、それだけで絶対の力を発揮するのではなく、あくまで人間の直覚力や認識力を前提とした上での限定的な道具にしか過ぎないということを、よく考えてみるのがよいと思います。

そうすることで、何事も独善に陥ることが少なくなり、柔軟な発想が生まれやすくなると思うのです。

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