貨幣も要らないいのちの一体性に基づく共同社会(2)

前稿(1)では、「生命的な物流原理」にもとづく、貨幣も要らない共同社会が実現するためには、人間がこれまで身につけてきた強固な境界意識を弱めることが鍵になる、と述べました。そのためにはどうすればよいのか? これはなかなか難しい問題ですが、今回この問題を深めてみたいと思います。

 

いのちが分かれて出来た世界

まず、境界意識を弱めいのちの一体性を思い出すという問題に入る前に、そもそもなぜ境界意識が生じたのかということについて考えてみたいと思います。

現在の科学の知見によれば、私達の住むこの世界は、今から一三七億年前、原初の宇宙の爆発(ビッグバン)により生じ、その膨張の過程で様々な銀河や星々が生まれ、そこからすべての生命が誕生してきたとされています。宇宙が分化せず、すべてが一つのままでいたならば、私達の知る太陽や地球も存在せず、人類がこの地上に文明を誕生させることもなかったでしょう。その意味で、分化の働きそのものは、この世界におけるいのちの創造・進化における重要な基本原理の一つであると考えられます。

私達人間の意識も、こうした宇宙の分化の過程で生まれてきました。しかし、表面上は分け隔てられているように思える個々人の意識も実は大元でつながっているのだということは、東洋の宗教哲学や西洋の深層心理学が教えるところです。これらが説く意識の階層モデルによれば、人間の心には、表層的な顕在意識の下に潜在意識があり、さらにその奥には、個人の意識を越えた集合意識や、すべての存在と一体である宇宙意識が存在するとされています。こうした分析モデルは、太初の統一意識から次第に分かれてきた経緯を持つ人間の意識が、今なお根底において一つにつながっていることを示しているともいえるでしょう。

 

懸命さがもたらす忘却

しかし残念なことに、前回も述べたとおり、現代に生きる私達は、いのちの一体性を忘れて境界意識を強めてしまった結果、様々な困難を生じさせています。一体なぜこのような事態が生じたのでしょうか?

ここで一つの例として、大きな組織でしばしばみられるセクショナリズム(自部門主義)の問題を取り上げてみましょう。それぞれの部門は、もともと固有の使命を帯びて設置されているのですが、いつのまにか部門意識が強まって壁ができ、部門の論理が組織全体の目的に優先されるようになり、極端な場合には組織全体の利益に反する行動をとるようになってしまいます。しかし、これはある意味で、小さな組織が自己になりきって任務を果たそうとして懸命に働いた結果といえるかもしれません。私達人間は、役割を与えられそれを懸命に全うしようとすればするほど視野が狭まり、全体のことを忘れてしまうという傾向をもっているように思われるのです。

しかし、考えてみれば、人間というものは、何か事を成し遂げるときには、過去のことや周囲のことをすべて忘れるほど没頭するのが常であるともいえます。この世界が十分に発展するためには、分かれた部分がいったん全体のことを忘れる必要があった、すなわち、私達が全体性を見失ったのは分化を通じた発展を推し進めるための必要なプロセスであった、とは考えられないでしょうか。

 

境界意識を弱める手法

とはいえ、分離の意識が強まりすぎると、やがて共同体そのものを損なうようになることは明らかです。それを免れるには、私達がやはりどこかで分離の錯覚に気づき、再びいのち一体の意識に目覚める必要があります。

意識の階層的理解に従えば、私達が全体的な意識を取り戻すためには、自分の意識の深奥にアクセスしていく必要があります。そのために昔からある方法としては、たとえば滝行やヨガなど身体行を伴う修行法があります。武道や芸の道を究めることが悟りの境地に導くという伝統も我が国には存在します。一般人には、座禅に代表される内観や瞑想などの方法や、妙なる真言を繰り返し唱えるという方法が取り組みやすいでしょう。

さらに最近は、これらの伝統的な手法に加え、新しい心理学や脳科学の研究成果をもとに、人間の捉われを解放していく様々なプログラムが開発されており、容易に参加できるセラピーやワークショップなどもあちこちで行われています。これらの中から自分の状況に合ったものを選んで実践を重ねることが、強まりすぎた自我を弱め、いのちの一体感を育む上で有効であると思われます。

 

思いを馳せ、受け入れること

しかし、こうした努力の多くにおいて、必ずどこかで出くわす難所があるようにも思われます。それは、どのような方法をとるにせよ、境界意識を取り除こうとすればするほど、それができる自分とできない自分という二元対立ないし境界が生まれ、そこに新たな苦悩が生じてしまう可能性があるからです。

私自身、若い頃から、不器用なくせに世の中の大きな役にたちたいという、ある意味で厄介なくらいの強い願望を抱いてきました。そしてその願いの実現を信じ、努力をしていたつもりでいましたが、四十代も後半になると次第に生活の環境が固定し、このままではその夢は叶えることはできない、という大きな壁にぶつかったのです。当時職場で消耗し心身共に疲れ切っていた私は、さらに昔から思い描いてきた夢を実現できない自分の弱さを思い知らされ、絶望感に打ちひしがれました。しかし、自分ではもうどうにもならない、天から授かった(と勝手に思っていた)自分の使命が果たせないなら死んでも仕方がない、とまで諦め切ったとき、それまで色々考えを巡らせてきた我の思いが崩れ去ったのです。「大きないのちによって生かされる自分」という現在にいたる実感が芽生えたのは、そのときのことです。

こうした経験をふまえて思うことは、私達はことさら境界意識を取り除こうとするよりも、初めからいのち一体の事実そのものを素直に受け入れる方が早道かもしれない、ということです。何も疑わずに心を開き、大自然に広がるいのちの存在に思いを馳せ、それを心から受け入れること。我の思いを捨ててすべてを受け入れようとする心の姿勢こそが、幻の境界意識から離れるために一番大切な要素であるように思われます。それは努力というよりも一種のイメージトレーニング、あるいは頭のチャンネルの切り替えのようなものといえるかもしれません。

 

「いのち」の働きへの信頼

このようにいうと、「我の思いを捨てることこそが難しいのだ」とのお叱りを受けるかもしれません。そこで、私はここで一つの大きな希望を指摘したいと思います。それは、私達の抱える境界意識の問題も、やがては「いのち」そのものが解決してくれるであろう、ということです。「いのち」とはすべてを生み出し運営する力である、と定義するならば、私達の個別意識を生んだのも「いのち」であり、他の存在との一体性を忘れさせたのも「いのち」であり、それを再び思い出させるのもまた「いのち」の働きである、といえるでしょう。

いのち一体の自覚に目覚めるために、私達はときに厳しい体験を味わうこともあるかもしれません。しかし、すべては大きな「いのち」が導くプロセスであることを想い起こし、信頼し、安心してもよいものと思います。

 

社会レベルでの意識改革

以上に述べたことは、個人の意識に関する話でした。前号に述べた社会の変革という観点からすれば、社会一般に広がった境界意識が弱まっていくことが重要です。それに対してはどう取り組めばよいのか、最後になりますが二点つけ加えておきたいと思います。

一つは、社会全体の意識は個人の意識の集まったものであり、一人ひとりの意識のあり方こそがまず重要であるという点です。個人の目覚めは、周囲の人から遠く離れた人の意識にまで必ず影響を及ぼしていくでしょう。もう一つは教育の役割です。頭の柔らかい子供たちに対して、いのち一体の真理をわかりやすく教える教育プログラムを提供していくことが重要になるでしょう。ただしそのためには、宇宙をつらぬく「いのち」のあり方について、今後あらゆる分野の英知を傾けた解明がなされていく必要があると思われます。

社会全体でいのち一体の意識を広めていくことは、結局、私達全員の協同作業となっていきます。いのち一体の意識が社会に十分に浸透したとき、生命原理に基づく経済体制がおのずと生まれ、現在私達を悩ませている格差の問題、各種の赤字の問題、領土問題など、すべての政治経済の問題に新しい光が投げかけられることでしょう。

 

《いのちの森文化財団「いのちの森通信vol.30」(2014年3月20日号)への寄稿より》