群盲象を撫でる

「群盲象を撫でる(評す)」ということわざがあります。

これは、インド発祥の寓話から生まれた故事成語で、世界でもさまざまなバージョンで語られているもののようですが、話の一例として次のようなものがあります*。

昔、6人の目の見えない人たちがゾウに触れて、「それが何だと思うか?」と王様に聞かれた。すると、
足を触った人は 「柱のようです」
尾を触った人は 「綱(つな)のようです」
鼻を触った人は 「木の枝のようです」
耳を触った人は 「扇のようです」
腹を触った人は 「壁のようです」
牙を触った人は 「パイプのようです」
と、それぞれ食い違う答えを述べて互いに言い争った。
すると、それを聞いた王様は、笑って言った。
「お前たちは皆、正しい。お前たちの話が食い違っているのは、お前たちがゾウの異なる部分を触っているからだ。ゾウは、お前たちの言う特徴を全て備えているのだ」と。
(*参照元:Wikipedia”群盲像を評す“より。伝承によって喩えに相違あり。)

この寓話から得られる教訓は、どんなことでしょうか?

この話が伝えようとしている教訓として、一般には、
「凡人は大人物や大事業の一部分しかつかめず、大局からの見方はできない。」
というふうに解されているようです。

私たちもこの話を聞けば、「なるほどそうだ。視野が狭いまま言い争うことは無益なことだ。」と、納得することでしょう。そして、さらに向上心のある人であれば、この話を戒めとして「自分の視野をもっと広げよう」と心がけたりすることでしょう。

しかし、この寓話が伝える教訓は、はたしてそれだけでしょうか?

この話から、私たちは、より一段深い教訓を読み取ることができるように思います。それはどのようなことでしょうか?

それは、比喩的な意味において、私たちの全員が盲人であって、その立場から決して逃れることができない、という事実です。

皆さんも、よく考えてみてください。

現実の世界において、この話における王様のように、完全に全体を見渡せる視野を持った人が、はたして存在するでしょうか?

よく考えてみれば、全人類すべての人が、それぞれ異なる場所に生まれ落ち、異なる人々や文化に囲まれて育ち、年代的にも異なる時代を生きています。その意味で、誰もが特有の世界を生きている、ということになります。

そのような限定的な世界の中で培われた私たちの知識や常識が、その外側にある世界でもすべて同じように通用するといえるでしょうか?自分が一員となっている家族、地域、民族、国、会社、業界など、あらゆる集団の中で常識とみなされていることが、一歩その外に出れば非常識となっているといった例は私たちの周りにいくらでもみられます。

このことは、人間は誰もが自分の偏った立場からものごとを捉えざるを得ない、ということを示しています。この寓話における王様のように、1人の人間が“全体“を見渡す完全な視野を持つことは、原理的に不可能である、ということを意味しています。

いいかえれば、私たちの全員が、どれだけ努力して視野を広げたとしてもーーたとえそれがアインシュタインのような天才であったとしてもーー(比喩的な意味での)盲人の立場から抜け出ることはできない、ということになるのです。

結局、この寓話から、私たちは、「誰もが王の立場から盲人の認識を笑うかもしれないが、じっさいには笑っている自分自身も本来同じ盲人なのだ。そのことに気づけ。そして謙虚になれ」という奥深いメッセージを受け取ることができるのです。

しかし、その一方で、このことを裏返して考えてみると、私たちの誰もが不完全な視野を持っているわけですから、自分の視野を広げていく余地はいつも無限に存在している、ということにもなります。

小学校を卒業すれば中学校の新入生になり、中学校を卒業すればその上の高等学校の新入生になり、というように、私たちが成長するとともに出会う環境はいつも新しく、「これで終わり」という終点は、本来存在していません。

私たちはいつも新入生のような謙虚な心持ちでいることで、学びの環境はいつも新鮮な姿で私たちの目の前に現れてきます。

「群盲象を撫でる(評す)」の格言は、私たちにいつも成長の余地があることを知らせ、自分の認識を広げていくことの大切さを促してくれているといえるでしょう。

(注)ちなみに、この寓話において、自分の体から抜け出て象全体を内に包み込む空間そのものになってしまうか、あるいは自分が象に乗り移りそのすべてを体感できるならば、象のすべて知りうる可能性があります。もちろんこれは比喩ですが、そこには「自我意識(エゴ)から脱却する」という重要な観点が含まれています。それについてはまた別の記事の中で取り上げたいと思います。